“文化政策”の学びで得たもの。

Goldsmiths, University of Londonには Institute of Creative and Cultural Entrepreneurship(以下、ICCE) という組織が存在する。2019年の9月から、ぼくはこの組織で MA Creative and Cultural Entrepreneurship : Media and Communication Pathway というコースを履修した。他のコースにもなるべく顔を突っ込んでは聴講をしたが、中でも文化政策は自身の関心が深く多く参加した。コロナですべてがリモート授業になる前までは、特に。

ICCEという組織の発足は2008年。「クリエーティブ産業に従事する人材育成」が英国政府の狙いであり、それが大学教育機関に落ち、公的予算が付与され創設された組織だ。Creative Practiceを持っている個人がその場で学び、創作技術を高めるだけでなく、どうEnterpriseしていくか?の、事業面のサポートもしていく。そんな組織なのだろうと、勝手に予想し志願した。

正直、残念ながら自分が思い描いていた理想の授業はなかった。「文化はカネにならない」と、耳にすることがある。こういう言説を吹き飛ばすようなウルトラCがあるのかな?と、ふわっと抱いていたぼくの期待はアカデミズムの世界に触れたおかげで消えた。アカデミズムの世界と、ビジネスの世界とのルールの違いがよくわかった。Goldsmithsは元来、とてもポリティカルレフトな校風で、人種差別に反対する学生団体が学校をボイコットしたりするような事件がいまだに起きるようなカルチャーを有している。(それでもだいぶ近年柔らかくなったそう)広告ビジネスの前線を張っていたぼくにとっては、世界の裏側へきたような感覚すらあったが、本当にこれが必要だった。この視座なしには文化を語ることへ自分なりの納得感をずっと得られなかったと思う。

欧州では「文化芸術振興は政府のお役目」という思想があるのはよく知らせた事実である。文化政策というか、それ以前に社会システム全体の話で、公的なサービス全般は中央政府(あるいは地方政府)がしっかり手厚くカバーするという、いわゆる「大きな政府」の考えが欧州社会の根底にある。一方で、市場の原理に多くを頼るのがアメリカ型だ。文化芸術の世界で言えば、大きな富と財を成した企業が財団化し、浸透した寄付文化とともに慈善事業・フィランソロピーとして文化芸術支援をする、といったように。日本はどうだろう?そんな思いで、だいぶいろんなものを読んだ。うまく機能しているのか?していないのか?遅れているのか?進んでいるのか?判断は難しいが、コロナ禍での各国の対応比較からは、日本はドイツと英国に次ぐ3番目の文化芸術関連の支援(7月時点)を公表している事実がわかった。吹き荒れる政府批判(特にネット上)を見ている限りは、日本の文化芸術に関する支援は相当ずたぼろなのかなと思ったその後、政府も焦りから相当がんばったのだろう。

話を戻すと。文化芸術は元来、政府の役目だという欧州の思想がある。「そもそも文化政策ってなんだ?」という点については、前回のクリエーティブ産業での投稿と同様、ぼくが語るには役不足すぎる。参照されたいのは伊藤裕夫さんのまとめ。経歴を拝見すると、同じ会社のご出身でした。

文化政策とは(ネットTAM講座) 伊藤 裕夫

“文化”という言葉の複雑性については以前の記事でも触れたが。さらに”政策”という言葉がついて抽象度がグンとあがる。日本の文化政策を批判する論文では「日本は複数の政府機関に跨った曖昧な文化政策が展開されている」といった記述をいくつも目にした。経済産業省、文化庁、外務省、いずれも文化に関わる業務がある。さらに先日話した友人からは、国交省も文化財保全でコミットしていると聞く。文化という対象自体がそもそも、あらゆる人間の活動全般を指す言葉であり、英国のケースを見てもDCMS(日本の文科省に相当する?)のみならず、財務省や国務省、ロンドン市などの自治体行政も大きな役割を果たす。どこだって文化政策はこういう絡まりかたをみせるものなのではないか。ふと気づいたら、そんな自分は「総合政策学部」の出身だった。たぶん、こういう複雑性に向き合う人材を排出するのが真の狙いだったのでは?なんて思って見たり。

文化政策に関する文献レビューを通して。一番大きな気づきは、「日本は戦後、文化政策を語るのはタブー視されていた」という視点である。戦時下において、植民地政策を取った日本は、朝鮮半島や満州において皇民化政策を進めた。創氏改名、日本語教育、領土を拡大し見知らぬひとびとと一緒になっていくプロセスの中で、言語や教育の足並みを揃える施策が展開された。文化からみんなの足並みを揃えていく。企業のM&Aだってそうだ。異なる存在たちを一つに束ねていく方向に文化政策は大きく機能する。現在90歳近いソウルに住むぼくの祖母は、いまでも流暢な日本語を話す。幼い頃に覚えた言語は忘れない。幼い頃に触れた文化は深く記憶に残る。

敗戦後、一連の苦い記憶を想起せる「文化政策」という言葉がタブー視されていた。この見方はおそらく間違っていなくて、すんなり理解ができる。別の視点があるとすれば、経済重視で高度成長を遂げる日本において、自国の文化を考える暇もなかった、という見方もあるかもしれないが。

ぼくが学んだ場もそうであったように、またネットTAMでアートやカルチャーに興味を持つ人々が触れる情報がそう言っているように、”文化政策”という言葉はいまではアートやカルチャーに資する人々に関連する政策を刺すようなニュアンスが強くなっている。クリエーティブ産業という概念が言われ、アートやカルチャーがかつてのように限られた特権階級やエリート層のものではなくなったいま、文化政策は文化芸術振興の意味でなんの疑問もなく使われているように感じる。これは伊藤さんの記事のまとめにある通りである。

ただ、学びの場を通して過去の日本の「タブー視」の側面を知ったぼくは、文化政策が持つまた別の側面を指摘しておきたい。いまでは当然のように”文化”はDiversityやInclusivenessといった、社会の多様性を広げる文脈で使われるようになった。この世の中の誰一人として取り残さないぞ、という文脈で、文化の力が導入される。そういう光景を見ることが多い時代だ。一方、少し歴史を振り返ってみると、そういう用法でなかった時代があり、異なる存在を束ねて国を一つするために文化の力が導入された時代があったこと、を念頭に置いておく必要があると思った。よくよく考えれば、英国で80年代以降にクリエイティブ産業が言われたのも、その後に2000年以降の日本でクールジャパンが言われ始めたもの、いずれも経済のテコ入れ施策であり、文化を使って国を盛り上げるソフト・パワーの考え方が根っこにある。2020年のコロナで世界経済が不透明さを増す中で、”文化”をもっともっと他国間での競争力に使っていく国も台頭してくるかもしれない。というか、これを書いているうちに、まちがいなくそういう国が増えるなと、確信した。

というわけで。文化政策についての学びと気づきを整理した今回は、ここまで。

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“文化資本”の話。おそらく、お金で買えないもの、の話。

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1985年のロンドン産業戦略 / London Industrial Strategy in 1985.