NYTimes / Opinion ”Medium is the Message” は、本当だった。

タイトル(原題): I Didn’t Want It to Be True, but the Medium Really Is the Message

日付:AUG 7, 2022

Speaker :Ezra Klein 

訳者 : Sungwon Kim

概要: Vox創設者でNYTimes Opinion CulumnistのEzra Kleinが、20世紀のメディア学者たちのセオリーを引用しながら、テクノロジーとメディアのあり方を再考し、ソーシャルメディアが孕む問題を批判する。


2020年。わたしは十年ほど無視し続けてきた本 “The Shallows : What The Internet is Doing to Our Brains” (邦題:『ネット・バカ』 著者:ニコラス・カー)をついに読み終えた。この本は2011年当時、ピューリッツァー賞最終候補作に残り、インターネットを忌み嫌う人たちの間で支持された本だ。

2011年当時のわたしはといえば、インターネットが大好きだった。わたしの世代は、サイバースペース登場前の世界を知るには若すぎ、一方でデジタルネイティブかと言われれば歳を食いすぎた、そんなジェネレーションだった。そのせいもあってか、わたしはこのインターネットという新大陸が好きになった。果てしなく広がる情報網。アバターのくせに時折人間的に感じるやりとり。そして、望みさえすれば限りなくどこまでも広がっていきそうな出会いの感覚。人生も、キャリアも、そして自分のアイデンティティ自体も 「リアル(Physical)の世界」と同じくらいに、デジタルの世界で築き上げていった。わたしはいわゆるリアルの世界をいち早く抜け出たタイプの人間で、それゆえその世界にばかり縛られている古い人間たちを時折かわいそうだと思うことも多々あった。

ところが十年の歳月が過ぎ、わたしのその感覚は薄れていく。オンラインという生活様式はより速く、早く、厳しく、騒がしくなっていくばかり。”A little bit of everything all of the time “ (いつでも、どこでも、すこしだけ) コメディアンのボー・バーナム(Bo Burnham)が現代のライフスタイルをそう形容したように、スマートフォンはあらゆる場所にインターネットをもたらし、かつては想像もできなかった光景を生み出した。先日、わたしの目に飛び込んできたのは、公衆トイレの小便器前にずらりと立ち並んだ男性諸君が全員スマホ片手に画面を見つめる、そんな光景だった。

この現象、規模が大きくなればなるほど事態は深刻になっていく。まだ若かったわたしにとって、当時インターネットが果たした役割は、普段の学校生活からちょっと逃避をする程度のものだった。しかし、いまやその学校生活からの逃避という射程は拡大を続け、全世界のひとびとの逃避先と言える規模までに波及した。かつてのトランプ元大統領のツイートを見ていると、悪ノリの神格化が実現してしまったような不気味さがあり、「猿の手を振って」(※英国のおとぎ話 “Monkey’s Paw” より)みたら、本当にその願いが叶ってしまったような事態に見受けらる。世界のひとびとはみな、退屈な日々にうんざりしてインターネットを覗いていたわけだが、彼らのチョイスによって皮肉にも本当に毎日退屈しないような事態が起きてしまったというわけだ。

2020年に再びニコラス・カーの本を目にしたときのわたしは、その本を読む心の準備が十分に整っていた。この本は、さまざまなメディア理論を示すだけではなく、名だたる20世紀のメディア理論家たち - マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)、ウォルター・オング(Walter J. Ong)、ニール・ポストマン(Niel Postman)など - が予見し、警告した内容の全貌を見せてくれるものだった。

ニコラス・カーの議論は、とある日常の些細な出来事の観察から始まる。

脳の働き方が変わってきている気がしたのです。ひとつのことに数分間、集中できないのが気になってきたのです。はじめは、中年のちょっとしたメンタルの衰えかなと思った程度だったんですが。ボーっとする感じ。ただ、なんだかそれだけではないと気づき始めたんです。後にわかるようになりましたが、脳が飢えている(Hungry)んです。脳が、情報という餌を欲しがるんです。脳に餌を与えれば与えるほど、空腹感も増幅していくんです。パソコンから離れていても、Emailをチェックしたり、リンクをクリックしたり、検索をしたくなってきてしまうのです。とにかくなにかと、つながっていたくなるのです。

"Hungry" この言葉が引っ掛かった。まさにそう感じていたのだ。ハングリー。欲しがる感じ。むずがゆい。たしかに情報を欲してはいたが、なにか不必要にまで欲しが理続けてしまう感覚。そしてこれは、ソーシャルメディアと相まって完結に至る。「あなたはここにいるよ」「みんな見てくれたよ」の、あの挙動によって。

ニコラス・カーの研究は、マクルーハンに立ち返る。マクルーハンは映画 「アニーホール」(Annie Hall)へのカメオ出演と、”Media is the Massage” (メディアはメッセージである)の格言で知られるカナダのメディア学者だ。当初、わたしはこの格言には全く興味を惹かれなかった。むしろ、彼が1964年に発表した名著 ”Understanding Media, The Extensions of Man” (邦題:『メディア論―人間の拡張の諸相』) の序論に記された以下の記述がずっと心の中に残っていた。「あらゆるメディアに対するわたしたちの従来の反応、すなわち “メディアはどう使われるかが重要“ というのは、技術への理解が乏しいひとの態度である。 "コンテンツ "とはそもそも、情報受信者の心を重要な事柄から逸らすために運ばれてきた “美味しそうなジューシーなステーキ” でしかない」

長らく「メディアは中立で、コンテンツが王様」そんな風に言われてきた。そう、教えられてきた。テレビというメディアそのものには特に問題はなく、問題になるのはむしろ、あなたがどの番組を見ているか、"The Kardashians" なのか、"The Sopranos" なのか、"Sesame Street" なのか 、"Paw Patrol" なのか、だった。読書の場合はさらに、ポピュラーな小説を読んでいようが、18世紀のヨーロッパの歴史を読んでいようが、なんらとやかく言われることはない。ツイッターの場合はまた別で、メディア自体が新しく街に生まれた広場のようなものなので、フィードがいかに内紛やと怒りに満ちた地獄絵図のような場であったとしても、すべてはユーザーのあなたの責任、ということになる。

「コンテンツが王様」 というのは一理ある。ただし、すべてそうだとは言い切れない。マクルーハンの主張は、メディアはコンテンツよりも重要であると強調するもので、メディアという存在は全ての想像や消費を貫く共通のルールであり、それがひとびとと社会を変えるファクターであるとするものだった。たとえば、口承文化(Oral Culture)には一定のルールがあり、文字文化(Written Culture)にはまた別のルールが存在する。テレビはすべてをエンターテインメントに変えるルールがあり、ソーシャルメディアは群衆(Crowd)とともに考える姿勢を強要するルールがある、といったように。

このメディアが敷くルールというのはすべて、コンテンツという階層の下で起きていることだ。CNNとFox NewsとMSNBCはイデオロギー的に異なっている。しかし、それが ”ケーブルテレビである” 以上は、キャスターの表情、映像の描かれ方、緊急ニュース報じ方の違い、スピード、意見の対立を扱う態度 etc.. どんな些細な違いひとつをとっても、そこには同一メディアとしての類似性があると言う見方だ。わたしは司会者として、またゲストとしても、ケーブルテレビへの出演に多くの時間を費やしてきたが、この同じメディアのフォーマットがもたらす ”同一性や類似性” に賛同する。ケーブルテレビというメディアには均一の文法と論理があり、各社の社内文化や、あるいは十五分ごとに舞い込む視聴率速報などの仕組みによって、ある程度同じルールが強いられてしまうのである。良い番組を作っていようが、悪い番組を作っていようが、結局のところ ”ケーブルテレビ番組を作っている” という事実を越えられないのである。

マクルーハンの主張は、ポストマンによって引き継がれた。ポストマンはマクルーハンよりも道徳感の強いモラリストで、メディアが及ぼす効果をクールに分析することより、むしろそれが社会にどう影響するかを考え、時にそれを嘆いた。マクルーハンが敏感に察知していたトレンドが成熟する先を見ていたのである。”The Paradox of Democracy” (未邦訳)の共著者であるショーン・イリング(Sean Illling)は、マクルーハンとポストマンが残した言葉の違いを挙げてこう教えてくれた。マクルーハンは「何がメディアに表現されているかを見るだけでなく、何がどのメディアに表現されているかを見よ」と言い、ポストマンは「何がメディアに表現されたものを見るだけでなく、メディアに表現されたもののうちどこまでが、実際に表現可能だったのかどうかを見よ」と、述べたと。ポストマンが言いたかったことはつまり「メディアという存在事態が、なにかしらのメッセージをブロックする可能性がある」ということだった。

ポストマンは、1985年に出版した”Amusing Ourselves to Death” (邦題:『愉しみながら死んでいく- 思考停止をもたらすテレビの恐怖』)という予言に満ちた著書の中で、わたしたちが恐れるべきディストピアは、ジョージ・オーウェル(George Owell)の「1984」のような全体主義ではなく、オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)が 「すばらしい新世界」 で描いたような薬物漬けの怠惰な状態ではないかと危惧している。テレビというのは、何でもかんでもエンターテイメントであるべきだと、われわれに教えてくる。しかし、この世の中はすべてが娯楽であってはならないし、もしすべてそうなって欲しいと期待する人が増えるのは、社会的・イデオロギー的な大きな変化である。ポストマンは、いわゆる「テレビがジャンクだ」 とテレビを批判する人たちと自分の立場を違うとしながら、違いの説明に苦心しつつも以下のように述べた。

わたしは ”テレビはジャンクだ” という類の主張に特に異論を唱えるつもりはありません。むしろ、テレビの何がいいかって、そのジャンク的なものだとも思っているくらいで。そのジャンク的ななにかのせいで、わたしたちが大きく脅かされるようなことはないと思っています。そもそも、そういう”ジャンク”なるものとは別のものさしで、わたしたちの文化というのは決まってくるものです。わたしたちの文化はジャンク的なもので測られるのではなく、わたしたちが “何を重要だとするか” ということによって測られるのです。ですので、わたしがどうしてテレビの世界がもっともくだらなく、(もっと言うと)危険だと思うかと言うと、その産業に従事するひとたちが自分たちが重要な文化的会話の担い手であると思い込んでいるからなのです。皮肉なことに、多くの知識人や批評家たちが、テレビというメディアに重要な役割を求めています。こういうひとたちに潜む問題は、テレビが及ぼす影響や効能を、まだまだ十分に、真剣に捉えていないということなんです。

ポストマンはテレビについて、シットコムなどのバラエティではなく、ニュース番組を危惧していた。「テレビは、ニュース、政治、科学、教育、商業、宗教などの議論において、それらが娯楽情報に変わってしまうとき、わたしたちに悪影響を与えます。テレビ番組の質が低くなる時、わたしたちは経済的に豊かになるという皮肉な現象があります。”The A-Team”や “Cheers”のようなエンターテインメントは、社会に大きな害がない一方で、むしろ社会や教育的情報番組の ”60 Minutes” ”Eyewitness News” “Sesame Street” がエンターテインメントになるとき、ちょっと問題があったりするのです 」

どれもこれも滑稽である。 "Sesame Street "も"60minutes "も、何十ものエミー賞を受賞している。それでもなお、ポストマンはここに旗を立てたのである。エンターテインメントとそれ以外のものとの境界が曖昧になり、エンターテイナーだけが政治家に対する期待に答える存在になることの危険性を、強調したのである。文字の時代に政治家として通用した人たちが、画面というメディアを支配できないがために、政治から締め出されてしまう可能性について、彼は多くの時間を費やして深く考えていたのである。

これはポストマンの時代で言えば元俳優のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)の大統領就任がそうだったわけだが、わたしの時代には同じく元俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー(Arnold Schwarzenegger)、そして元プロレスラーのジェシー・ベンチュラ(Jesse Ventura)、きわめつけはドナルド・トランプによって最高潮に達する。ポストマンが警鐘を鳴らしたように、彼の著書にあった予言はなにひとつ突飛なものではなかった。「リアリティTVショー」というカテゴリは、エンターテインメントがすべてを吸収してしまうということを説明する格好の事例である。「リアリティ」と言う言葉自体がもうすでにフィクションのジャンルの中の一つに入ってしまい、「真実を装う」こと自体が人々を魅了するという一つのジャンルが成立してしまったのである。

この新しいジャンルの中に、トランプが開花した。雇用や解雇に圧倒的な才を持つ冷酷な経営者、という大統領像を完成させたのである。大統領に見習い期間があればまだマシだったのだが・・・残念ながらそれはなかった。この現象は、アメリカだけに留まらない。ウクライナ大統領ゼレンスキーは、テレビのシットコムでウクライナ大統領 という一人の男を演じたのち、本当に大統領の座を獲得した。番組名に "Servant of the People "という名前をつけた彼の政党は彼を党首とし、その彼の才能はロシアが侵攻してきた瞬間に開花した。戦時中のリーダーを劇中で完璧に演じた彼は、ロシア侵攻までまでは無関心だったはずの西側諸国を見事にウクライナ側へ引き込んだのである。

ゼレンスキーの例が示すように、重要なのは、エンターテイナーがすべて悪いリーダーであるということではない。私たちはテレビを通して世界を見るようになり、その ”テレビというメディアの影響で” わたしたちの世界の見方も変わっているということが重要なのである。ポストマンの主張の中でわたしが最も印象深かったのは “テレビとはいったい何か” という本質的な問いに向き合うことよりも、ただ ”テレビをもう少し良くしよう” 程度の考えしか持たなかったひとびとへ彼の挑戦的な態度だ。「こういうひとたちに潜む問題は、テレビの効能をまだ十分に、真剣に捉えていないということなんです」。

わたしは今日、いわゆるテクノロジストたちに対して、同じような感覚を覚えている。彼らの問題は、テクノロジーをまだまだ十分に真剣に受け止めていないところにある。テクノロジーが私たちをどう変え、自分たちをどう変えていくのか、その本質的な意味を真剣に考えようと、見ようとしないのだ。

ブラウザのMosaicやNetscapeの共同創業者で、ベンチャーキャピタルA16Zの創業者でもあるマーク・アンドリーセン(Marc Andreessen)のツイートを見ていてわかったことがある。彼は、ネット上の誰もが "the current thing " (※)に取り憑かれているという言説を絶え間なくツイートしている。アンドリーセンはMetaの役員を務め、彼の会社はイーロン・マスクが提案するTwitter買収の資金援助もしている。アンドリーセンは、アルゴリズムの力を駆使して世界中の人がネット上で共有する話題の数に働きかけた。かつては地域差のあった(アメリカでいえばOmahaとOjaiのような)ニュースというそもそもばらつきのある情報基盤を、平たいメディアプラットフォームに作り替えた中心人物である。彼はいまでも、ソーシャル上の”The current thing”のダイナミクスが渦巻く世界を、加熱する投機市場へと仕立てるために執拗なプロモーションを継続的に行っている。

彼の主張の背景には、人間の本質的な部分といわゆるテクノロジーが、どのように関わり合うか、あるいは関わらないかという視点が横たわっている。タイラー・コーエン(Tyler Cowen)とのインタビューの中でアンドリーセンは、Twitterは「巨大なX線装置」のようだと示唆している。

Twitterのこの現象、とにかく面白いんです。影響力のあるひと - 多くの場合、特に大きな権威を持つひと - つまり著名な法律家や有力な政治家、あらゆるビジネスパーソンなどのひとびとがツイートした途端に「ああ、これがあなたの本当の姿なのか」と思わせる、裏切られるようなことが起こるんです。

果たして、そんなに面白いだろうか?アンドリーセン自身、Twitterをやっているときとやっていないときとで、まったく違う一面を見せるのではないかなと、わたしは思うのだが。つまり、安定した自分、変わらない自分というのは存在ないのではないかと思うのだが。人は、残酷な時も、利他的になる時も、あるいは視野が広くなったり狭くなったりする時もある。わたしたちはこの瞬間、この文脈で、なにかしらの方法により媒介された(Mediated)された存在ではなかったか。技術者たちが、自分達が生み出した技術がなんらひとびとのの存在に影響していないと装う態度は、わたしには技術者たちの責任放棄に思えるのだが。アンドリーセンがX線装置を目の当たりにした時、そこで照射されるレントゲンにばかり着目しているとするなら、わたしはX線装置全体の”金型設計”自体に着目したいのである。

この十年で、シリコンバレーに対する風当たりは強くなった。大した仕事でもないのにいい給料をもらう人材が増え、未来のためにビジョナリーなことを謳う人材は、どこか現代を蝕むマキャベリストとして疎まれるようにすらなってきた。この一連の動きにわたしが苦言を呈したいのは、今も昔も、人や企業にばかりフォーカスを当て、肝心の ”テクノロジー自体” を批判していないとういことだ。それは、アメリカ文化というもの事態が、長らくが技術に対する批評を深く嫌っているからではないかと思う。技術批判に対する免疫システムのようなものが駆動するのだ。ラッダイト(Luddite)、警告主義者呼ばわれしてしまうのだ。この意味でポストマンは「すべてのアメリカ人はマルクス主義者である」とすら言っている。「わたしたちは、歴史はあらかじめ決められた方向へ動いていくものだと考え、テクノロジーというものはそれを支える強固な力だと信じて疑わないのです」

上記のアメリカ人描写は部分的に正しいと思う一方、アメリカ人はまた別の側面を持っているのも事実である。アメリカには資本主義の考えが大きく横たわっており、選択の自由が保証される限り、こうした批評に対してひとりひとりが考え直すチャンスを与えられている。この個人に与えられた裁量が、わたしたちへのテクノロジーやメディアが与える影響を説明するのが難しい一つの理由だ。なんらかのレベルで、個々人の価値判断(Value Judgement)が要求される問題だからだ。最近、SNSがティーンエージャーに与える影響についてデータを収集している社会心理学者ジョナサン・ヘイト(Johnathan Haidt)はこんなことを言っていた。「どうすればソーシャルメディアを変えられるか。さまざまなトライアルがある。Likeのカウンターを隠すなど、Instagramは実際に試してみた。だが、はっきり言わせてほしい。多感な思春期の少年少女たちが、自分の写真を投稿し、公開し、そして見知らぬひとたちに評価されてもまったく彼らの心に害のない、そんな安全なアーキテクチャーや仕様の変更なんて、存在しない」

ハイトのコメントは明確に三つに分かれていて印象的だった。まず、Instagramという設計自体が、ティーンエージャーの考え方自体を変えているということ。Instagramは、自分の見た目や発言、行動に対する承認欲求を高める作用をし、加えて常時接続できる状態を保つことで、幸か不幸かティーンエージャーたちの心を常に飽き足らない状態にしているということ。次に、これはプラットフォームの存在事態が引き起こしていることであり、Instagramの使い方に起因するものではないということ、Instagramの設計自体に内在された問題だということだ。そして三つ目は、明確にこの現象を「悪いこと」だと、「悪い仕組み」だと言い切ったことだ。たとえどれだけ多くの大人がInstagramを使い、楽しんでいたとしても、それは悪い仕組みだということ、自分のこどもたちには経験して欲しくない仕組みだと明言したことだ。

Twitterの例も見てみよう。Twitterというメディアの特徴は、あらゆる文脈というものを無視して唐突に現れた280文字以内のメッセージも、運が良ければ注目を浴びることができる、そんな仕組みでユーザーの注目を惹きつけるメディアだ。Twitterは、他の人が何を議論しているのかを常に意識するよう促す仕組みになっている。会話の成功の尺度は、他の人が「どう反応するか」ではなく「どの程度の量の反応があったか」ということになっている。メディア自体がそういう”型”(Mold)を持っているため、このコミュニケーションの型がメディア、政治、テクノロジーなどの業界に特に大きな影響を及ぼしている。これらの業界はすべて、わたし自身が馴染みのある業界で、皮肉なことにわたしはその業界にいるひとたちがこのメディアの台頭によってポジティブな変化を受けているとは感じていない。

では、どうすべきか?ビジュアルアーティストのジェニー・オデル(Jenny Odell)が2019年に出版した名著  "How to Do Nothing: Resisting the Attention Economy" (邦題:『何もしない』)にヒントがあることに気がついた。著書の中で彼女は、メディアに関するいかなる理論も、”アテンション” (Attention)のセオリー自体から考え直さなければならないと語っています。アテンションを研究してわかったことのひとつに、それは伝染する(Contagious)ことであると付け加え、彼女はこう続ける。

特定の何かに注意を払っている人(たとえば、わたしの場合はとにかく「鳥」のことばかり考えています)と、たっぷり一緒の時間を過ごすと、必然的に同じものごとを気にするようになります。また、この”アンテション”(Attention)のパターン、つまり、何に注目する or しないかということは、わたしたちが現実をどう見るか、描くかそのものであり、わたしたちがつくる現実世界と直接的な関係を持つことがわかりました。つまり、わたしたちが ”何を気にしてい生きていくか“ を考えることは、わたしたちがつくる世界自体を変う得る革命的な力を持っているということです。

わたしは、オデルのこの問いと答えは正しい組み立てだと感じた。”アテンション”(Attention)は伝染するものだ。個人として、社会として、私たちはなにを、どんなことを気にしながら生きていきたいのか。どんな世界をみんなで見ていきたいのか。そのために、どのような媒体(Media)が必要なのか。

オデルの主張は、テクノロジー自体を批判する類ではない。マクルーハンの友人であり同僚でもあったジョン・M・カルキン(John M.Culkin)の言葉を借りれば「我々は道具を形成し、その後、道具が我々を形成する」の考えに沿ったものだ。「技術を真剣に受け止めるための議論」と、言えるのではないだろうか。

わたしたちは時に、楽観的だ。しかし、もう少し多くの時間とエネルギーを費やして、このテクノロジーやメディアに対する問いに答えなければならない。テクノロジーとメディアを考えることは、わたしたちはいったいどうありたいのか?私たちはいったいどんな人間になりたいのか?を考えることと、大きく変わらないのではないか。

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