言語とイメージ

2022.1.12 

約束してしまったのだった。今朝。保育園の帰りに必ず、あの本屋に立ち寄って新しいパズルを買うことを。妻が、ボロボロだから捨ててしまったあの、消防車のパズルの代わりになる新しいパズルを買うと約束したのだった。今朝。登園前に。

本屋が休業とは知る由もなかったので。とっさに悲しみに打ちひしがれた息子を連れ、二軒の本屋を回る。パズルが売っていない。パズルみたいな本はあっても、あの例のパズルがないのである。あのシリーズじゃないとおさまらないのである。”イメージ”が、明確にあるのである。

泣きなのか雄叫びなのか、主張なのか怒りなのか、悲しみなのか悔しさなのか、通りで足を止めた優しいお婆ちゃんが唯一5分ほどなだめることに成功したがすぐにぶり返した、とめどなく溢れ出す感情の混合物。”イメージ”が達成されなかった時の発露。

漫画にたまに挿入される、頭の中がこんがらがって訳が分からなくなってしまった時のグジャグジャ絡み合ってる吹き出しの感じ。感情が、悲しいとか悔しいとか、形容詞の類に分類される前段階の2歳児の心中で、芽を吹き出し分化したての苗木みたいな感情のツルたちが勢いよく絡まってほどけなくなってしまった感じ?この感情の複合体は何か包装紙とか枕詞とかに包まれることなくそのまま親の目前に提出される。父に似たか、声がでかい。わたしの鼓膜を貫通せんとする音量でなきじゃくった。

鷲田清一さんと河合隼雄さんの対談本「臨床とことば」の中で「言語とイメージ」というパラグラフがある。多言語主義について考えを巡らせ、先人の智慧に触れている中でこの本を数年ぶりに手にとったのだが、今の自分に必要な話がてんこ盛りだった。特にこの「言語とイメージ」の章は、言語教育を考える意味でも、早期教育を考える意味でも、わたしにたくさんのことを教えてくれた。ユングが扱った無意識界の話は言語以前の世界のことであり、それは夢の中の人間の潜在意識であり、まだ言語が生まれる前の人類の話や、言語習得がままならない状態の人間、つまり幼児の話をしているように思えた。

「保育に教育を」というキャッチコピーを数ヶ月前に電車の広告で見かけた。教育ビジネスはどこまでも貪欲に経済的余力のある親たちの財布を狙いに行くんだなと思った。その保育施設は少しでも早くからこどもたちに英語環境を用意し、英語に触れさせ、グローバルに通用する人材を育成します、という経営理念を掲げているようだった。島国日本の教育に物足りなさを感じるが、特に有望なオルタナティブがあるわけでもない。そんな親の教育不満に漬け込んだビジネスに見えた。ゾッとした。保育では何が育まれるべきか。言語が分化する前の、グジャグジャした感情の芽が、時に絡まったりまっすぐ伸びたりすることを見守る、そんなことではないのだろうか。言語に分化する前のマグマみたいな湧き上がる感情の息吹を、支える場所?

息子の歳のこどもと会話をしていると、まだ会話になりそうでならない(いやもうなっているか)コミュニケーションをしていると、気づかされる。彼らはいま、言語の世界にようやく足を踏み入れようとしている。吸い込んだ数ヶ月の言葉たちが突然ある日とめどなく溢れでてくることがある。まさにエクスポネンシャルというやつである。「イメージ」が「言語」に代わる瞬間を見た。この段階では、とにかく捕球力が大事。彼の湧き上がる気持ちを見守ったり、受け取る。受け取ると、おさまる。キャッチャーに徹する。一連の言語発達過程を見ながら、ぼくの言語をめぐる考えは大きく影響を受けた。

あの感情の爆発は、フラストレーションは、「イメージ」を「言語」に変えて伝えられない憤りからくるのだと推測している。もうどうやって伝えたらいいのかわかんねぇ!!ということが伝わってくる感じ。伝えたいけど伝えられないという憤りの水圧+怒り/悲しみ/悔しさ/主張etc みたいな感じの爆発物。

これは貴重なのである。言語に表象される前段階の、未発達な「イメージ」。このイメージがなかったら、ぼくたちはなにも表現できない。大人になったってそう。歳を重ねるとこれは「情熱」と言われるようになるのではないか。情熱がなければ、パッションがなければ、ぼくたちはなにも表現できないのではないか。分化前の感情の集合体がなければ、人は何も伝えられないのではないか。

幼児の話はそのまま大人に適用できる。情熱しかり、信念しかり、なんかそのぐちゃっとした熱いものが真ん中になければ、それは言語に落ちていかないのではないか。何か国語を話せる人間だって、真ん中にそれがなかったら、小手先で器用な言葉を並べられたところで、メッセージは空虚なものになってしまうのではなかったか。

プロダクトやサービス、法人も同じである。ビジョンやミッションの真ん中に、ぐちゃっとした温度高めのストーリーがなかったら、その事業体はいつまでたっても空転するリブランディングを繰り返し、エンドレスなお化粧直しというクリエイティブを繰り返すだけではなかったか。そういう景色をよく見てきてこなかったか。

息子のパズルがここまで筆を運ばせた。まるで感情荒々しい往年の芸術家のとなりで付き人をした気分になった本日の夕刻の出来事。日記で書き留めた文章をタイピングで清書しながら、今年も続けて行く月例の執筆習慣に変えて。

写真は、その後に月夜を眺めてふたりで反省したときのこと。2022年もどうぞよろしくおねがいします。

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