“Language is mobility“

Montyly notes. 2022年4月。最近の自分の習慣と、翻訳をしてみた文章について書きました。


“Language is mobility“ 

このフレーズをどこかで目にして以降、頭から離れない。文法的には間違っていそうだし、抽象的で解釈も人によって分かれそう。うまく訳す自信がなく、それでも自分が汲み取りたい意味を絞り出すとするならば 「言語は、わたしを、自由にしてくれる」みたいなことか。

獄中から著作を発表した数々の偉人たちの仕事からわかるように、ひとは囚われの身になったとて、口に、脳に、自由が許されている。何を口にしても、何を考えてもいい。そういう権利が、有難いことに守られている。いや、守られていない場所は世界中にはたくさんある。Twitterでの言論統制だってなされているし、万人の権利が守られているとは言い切れない。思想犯罪で取り締まられるケースだってある。そんな苦しさを目の当たりにしているひとたちを想像すると申し訳ない気持ちになるけれど、わたしの今の状況は恵まれているので、その人たちの分までこの立場を活用して発信することでその人たちに報おう。

現実社会は様々な局面で妥協の連続だったり難しいことばかりで、みな何かの囚われの身だったりする。お金を稼ぐにはどこかでみんな我慢をしたり不自由な思いをしたり。かつてのわたしはその檻の中で、ガチガチにロックされた鉄格子を必死に両手で掴んで「ここから出せ!絶対に負けないぞ!」てな具合に、大声で叫んでいるタイプだったと思う。時に頭を地面に打ち付けて血流し看守の視線をあおいでみたり、檻の中から悪知恵働かせて脱出のために仲間と試行錯誤してみたり。

ところがここ数年、日本語の外にいる時間を増やしてみてから、それがなくなった。自分に与えられていた言語の力にもう一度向き合って、頭を日本語の外に開いてみたことが、自分を解放してくれた。檻の中にいることを嘆くよりも、まずは檻の中の生活を現実として受け止める。その代わり、思い切り檻の外に思いを馳せる時間を作る。自分が動なくとも旅をさせてくれる、言語の力を思い切り借りる時間を作る。言語という船に乗って、ときにはあの人が住んでる島の情報を見に言ったり、自分の言語の船を漕いで、向かいたい方向に文章を書いて船出をしてみたり。


“Language is mobility”


言語は、自分の知らない風景を見に行くための最良の道具だ。こいつさえあれば、新しい価値観に出会いに行ける。言語が、生活に流動性をもたらしてくれる。どこにいたって、言語という道具さえ使えば、自分は移動することができる。みている景色を変えることができる。世界の捉え方を、移せる。コペルニクス的転回が起こせることを知った。

英語で読んだり、考えたりする頻度を増やしてから、思わぬ副作用があった。ほとんど使っていなかったハングルの能力が上がったのである。嘘みたいだが本当の話。日本語の皮を脱いだことで別のツボが刺激されたのか、ハングルの吸収度と使い心地が上がったのである。不自由な英語を話していた時間が、別の言語に触れることの心理的障壁みたいなものを下げてくれたのだと思う。

今年に入ってから、英語と日本語に加えてハングルを恒常的に摂取するリズムを実践してみている。毎日決まった時間、ハングル圏と英語圏の情報に触れる習慣を続けている。このコードスイッチングが、バイリンガルに育った自分にとって大事だと気付いた。自分の道具が日本語だけに絞られて行く感覚が、すごく窮屈だったのだろうと回想する。複数の道具をちゃんと使えていること、文化と文化の間を移動できていることは、自分にとって一つの健康の秘訣なのだと自覚するようになった。

その健康の秘訣の一つが、旅で。文化と文化の間をぴょんぴょん飛ぶ作業が、旅で。そうして10代20代と休みを見つけては旅をしてきたけれど、コロナで移動が難しくなったり、ライフステージが変わってなかなかかつてのような移動の自由が叶わない時。言語から他の言語へ橋をかける作業が、擬似的な旅の体験になっているような気がして、昨今楽しんで取り組んでみている。

 

Globalisation

毎日いろんなニュースに目を通していると、欧米メディアの言説を中心に「グローバリゼーション」を論じるものが増えているように感じる。グローバリゼーションが終わったとか、いや終わったのではなくて次のタームに入ったのだとか、とにかくいろいろある。コロナ禍によって各国が自分たちのブロックへ向かって行くような類の「グローバリゼーションの反動」を語る話が、ウクライナ戦争によりまた次のフェーズに進展して、混沌としている。自分でも世界で起きていることへの自分なりの見方を掴み取りたくて、NYTimesのDavid Brooksというオピニオンライターの記事の見出しにつられてこの記事を読んだ時、内容を深く理解してみたい思いで翻訳に取り掛かってみた。著者の意を汲んだり、論理構造を知る上では、翻訳という作業に勝るものはない気がする。擬似的に、その人の頭の中に入ることができる。Long Readですが、ぜひ興味のある方には読んでみてください。NYtimesのライセンス部からオンラインでの記事再掲ライセンスも取得し掲載しました。

何度か訳文を読み直して思った。「文化戦争」と訳すのは、文字面のインパクトもあり、かつ原文の文字並びを忠実に訳しているので相応しいようだが。この言葉が表現したいことの本質はもう少し紐解きをした方が良い。思い切って意訳をするなら「価値観のぶつかり合い」とした方が適している。日本語の「文化」は、「価値観」という言葉とは別のポジションにあるイメージをわたしは持っているけれど、英語圏でのCulture(文化)は、それぞれが「信じている対象」とか「大事にしている考え方」を指しているように感じるからだ。この翻訳記事においてはその意は反映せず「文化戦争」と記したけれど、「文化戦争」とだけ訳するとこぼれ落ちてしまうこの言葉の意味は「価値観のぶつかりあい」くらいのシンプルな表現で拾える気がする。先日、3年ぶりにアメリカから日本に一時的に遊びにきている友人にこの記事の話をしたら「ずっと前からそうじゃんね」とサラリと言われたので、いまさらその多様に広がった「価値観ぶつかりあい」の衝突を取り立てる理由もないよ、という批判もありそうだけれど。

 

Asylum Seeker 

グローバリゼーションの未来を憂う議論とは別に、グローバリゼーションに翻弄され、不利益を被ったり、辛い思いをしたり、苦しい経験をしている人たちのことを扱う記事もある。経済が世界規模でつながって行く中で、たくさんのひとの動きが起き、国家間のひとびとの移動というは右肩上がりに増える中。思い通りの移動が叶わなかったり、経済的な理由から移動をせざるを得なかったひとの話。そういう人々がボートピープルや難民の問題として欧州で大きな社会問題となり、Brexitや右傾化、ナショナリズムの高まりに影響していることについては、いくつものニュースをみれば明らかなことである。上で書いたDavid Brooksの話を読んだ後、この話に戻ると、たしかに民主主義が・・とかを語る前に、いま解決できてない問題を解決しないとというのはごもっともで、視点が全く違う。そういう難民や亡命希求者、国家という枠組みにはまらずに庇護を求める人々のことを扱う眼差しは、英国で学んだMigration and Mobility Studiesに多く、日本語にすると「国際社会学」という分野に該当するらしいわたしが学んだ領域はその問題を扱うことがメインだった。

そんな中。そういう人をどう救済しようかという視線を持つ人々にとっては仰天の政策が英国で発表された。移民の流入数をなるべくコントロールしたい彼の国は、不法に入国した人々の増加を防ぐ抑止策として、ボートでの亡命希望者たちを国に入れずに「ルワンダへ送還」するという、アクロバティックな案を発表したのだ。目ウロコの政策だっただけに、わたしの理解とこれに対する自分の考えを深める意味で、Economistの社会政策エディターが政策を批判するポッドキャストを翻訳をしてみた。関心を持った方、少し覗いてみてください。わたしには、おそらくこういう一見残忍に見える仕組みが、皮肉な現実として、未解決の社会問題を解決することになって行くような予感がして、少し複雑な心境だだ。

 

翻訳という営為

左に土着の文化、右に外来の文化を置いてみる。読み手のことを考えれば、なるべく左側に寄せて、その土地の人々にとって読み心地の良い文体に揃えたり、自然な表現を選ぶべきだけれど。一方で、右側にもある程度引っ張っておかないと、著者が表したかったことや風景というのが変換の過程でこぼれ落ちてしまうリスクがある。また、ある程度右側の事情を左側の人にもわかってもらわないと、右側の思考が左側とはまったく別のもだったという事実に意味がなくなってしまう。

そうやって間を縫う表現を探って行くと、時に不自然な表現をそのまま残すことになる。この「不自然さ」をどの程度残すかは、その翻訳者のスタイルということになってくるのか。この不自然さに対する態度が、その人の異文化コミュニケーションに対する考え方を写す鏡になるし、センスのひからせどころのだろう。この調整弁のような仕事は、機械翻訳にはなかなか代替できないはずの作業で、真の翻訳者の仕事というのは、このレベルの質を問われて行くと思う。翻訳に従事したことのある人に聞くと、どうしても翻訳という仕事の立場や評価にフラストレーションを覚えているひとによく会う。高次元での翻訳の作業というのは可視化されづらいけれど、わたしにはとにかく大切な仕事に思える。

The International Booker Prizeというアワードがある。世界的な文学賞であるブッカー賞が2005年から表彰する翻訳部門の賞で、特徴としては「著者」と「翻訳者」の双方がその賞金と栄誉を均等に分け合うというもの。文化の衝突や、価値観のかけ違いが加速すればするほど、その誤差を埋めて行くことに暗躍する人はキーマンになってくるはずで。だとすると、こういう翻訳者の地位を向上させるようなアワードというのは希少だけれど面白いフレームだなと思う。

世界は、政治も経済も先の読めない様相を呈しているけれど、おそらくひとの移動は止まらない。むしろ、混迷の様相を呈すればするほどに、ひとは旅にでる気もする。新しい価値観を探しに。実際、テーブルの上でいまわたしは、新しい価値観を探しに言語の船を漕いでいる。やることが、たんまりある。こんな文章を最後まで読んでくれた数少ない読み手の方に感謝しつつ、もっとこういう話を分かち合って、一緒に学んで、成長していける友人との新しい出会いをいつも探しています。

今月はここまで。みなさまよい連休を。

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